新潟・福島両県の豪雨災害で被害を受けた方々に心よりお見舞い申し上げます。
といっても、実は私にとっては人ごとではないのである。私の父の実家が三条市にある。
おじさん、いとこをはじめ多くの親戚が三条市周辺に住んでいるのだ。
直接電話確認するわけにも行かず、私の母親から状況を教えてもらったが、やはり被害を受けていたようである。
詳しい状況まではわからないが、家が浸水被害にあわれた方もいるようだ。
そして何より気がかりなのは、コメ。
父親の実家もコメ農家である。おいしいコシヒカリを作っている。
きれいな水で冠水したぐらいではイネは大丈夫らしいが、今回は場所によっては相当な泥水が流れ 込んでいるようである。泥水で冠水してしまったら、イネの被害は相当なものになるだろう。
農業というお天気だよりの産業の怖さを垣間見る思いである。
人名を守るための遊水池としての機能を持つ水田の有効性と共に、産業として生活の糧を得るための水田の経済的リスクという相反するものがあり、水田が冠水したおかげで、人命が守られたと単純に割り切れない問題がある。
社会資本整備の観点から議論からすれば、何十年(50年確率、100年確率)に一回の現象であれば今回はあきらめてください。そして、同じような雨が降ったときには、同じように冠水しますので、そのときもあきらめてください、ということになる。
社会資本は、過去の最大規模の洪水を基準として整備されておらず、降雨確率と流出係数との関係からその能力を定めているからである。
堤防で御しきれない洪水には、水田が遊水池として働く。
水田は、昔から遊水池としての役割を果たしてきたが、現在の生活を考えたとき、水田を遊水池として使うことが、地域経済としてプラスとなるのか?
そう考えると、少なくとも過去最大規模に対応できる流量調整機能を堤防の整備目標にするなどという議論が出て良さそうな気もする。
そのような議論では、国民経済と社会資本整備費用との相反が発生するのだろうが、日本の脆弱な国土に対しては、いくら文明が進んだいえども、洪水や地震などと共生していく「知恵」を忘れてはいけない。
先人の知恵を学びながら、次世代につながる社会資本整備のあり方をきちんとと議論していくことが必要である。
自然に真っ向から立ち向かうのは、非常に難しい。自然現象を完全に御すことはまだ人類は許されていないのである。